鬼ヶ島の鬼伽姫
―紅鬼編―


#3 説明タイムきたー!


千児は今度こそチビッたかと思った。
身を宙に投げられて、一瞬だけ、重力から解放された感じがした。手すりの一部と木片が剥げ散るのがスローモーションで見えた。その時、彼はいよいよ死を覚悟した。覚悟を決めた自らの潔さがいじらしく思えて、鼻の奥がつんとした。
しかし、垂直落下がはじまる直前、恐怖というものがちと遅れてやってきたのだった。おれは落ちるのだ。落ちたら痛いのだ。そのような二文でもってこの事態が理解された途端、彼の脳裏にさまざまなヴィジョンが駆け巡った。

祈るようにうつむく彼の家族。突然訪問してくる警官。届けられたものは、悲しい知らせと彼の遺物。擦り切れたカバン。その中から取り出される、買い食いしたパンの袋。隠していたテスト。隙山の愛したエロ本。そして、その他わけのわからないゴミの類。警官は問う。「息子さんのものに間違いありませんか」。母は泣き伏し、父は鎮痛な面持ちで言う。「息子のものに間違いありません」。いつのまにか、友人たちや隙山までがその場で鼻をすすりながら、口々に言う。「あいつのものに間違いありません。奴は巨乳が好きでした」。五月の朝。外には悲しい時雨が降っている……。

その時、彼の中でめらめらと燃え上がるものがあった。それは、生への渇望であった。
「くそっ! 死ぬものか!」
きつく目を閉じながら、彼は虚空を抱きかかえるようにして大きく両腕を開いた。ガツッと肋骨を打つ。激突したそれは、岩のように硬い。そして青い。千児は必死にしがみつき、這い上がった。揺れる、はげしく揺れる。振り落とされるものか、と彼はあがいた。おれは生きねばならぬ。そう思った。生きて、隠さねば。隠さねばならぬ、と。そう思った。
「は!」
と女の笑い声。千児の背中の向こう側で、鬼伽姫が嘲笑った。
「小物の分際でアタシを助けに来たのか! バカめ!」
彼女が跳躍した次の瞬間、グシャリ…といやな音が鳴った。千児はやんわりと地面に落ちた。見れば、巨大な獣が死んでいる。千児は化け物の背中にしがみついていたのだ。ぞっとしたのも束の間、彼はへたへたと膝をついた。

(おれは、生きている)
と彼は思った。生きるとは、このように鼓動が熱いことなのだ、と彼は思った。そして同時に、生きるとは、隙山のエロ本を処分できる、ということでもある。
「やったぜ、姫さまよう!」
思わず千児は鬼伽姫の右手をとって喜んだ。
「気安く触れるな!」
姫はその手を振りほどくと、左手で千児の頭を鷲掴みにし、グルルと唸って威嚇した。千児は親に叱られた稚児のようにあわれっぽく泣いた。
「ひ、ひい、や、やめ……親父さーん! 助けて!」

しかし、そんなことを言っている場合ではなかった。室内にはまだ4体の青い化け物がいたのだ。戦闘中の鬼伽姫の父親は、青い獣どもに対して怒り心頭を発するに任せ、羽交い絞め状態を脱すると、襲いかかる3匹を抱きかかえるようにして押さえ込んだ。と、獣たちは突然輪郭をゆがめると、邪悪な6枚の翼を広げ、跳躍。鬼の巨体を放り投げた。
「あ! 親父さん!」
それでも空中の鬼は3匹の首を鷲掴み、道連れにして窓に激突。ガラスが砕け、壁がひしゃげた。そのまま屋外に転落したようだ。鬼伽姫に頭を掴まれたままの千児は宙に足をぶらぶらさせながら大いに慌てた。
「お、親父さん、大丈夫かよ!」
「ばーか、親父があれくらいで参るものか」
と、姫は歯を見せて自慢げに笑った。と、その背後で残る一匹が唸り声をあげた。千児は姫に頭を掴まれたまま悲鳴をあげた。さらに、遠鳴りのように聞こえるまばらな足音。さらなる援軍がこちらに向かってきているのである。

姫は地を蹴って高く跳躍し、化け物の突進をかわすと、次には自然落下の力にまかせて、その顔面を裸足で蹴りつけた。周囲の空気は落雷のごとく振動し、獣の頭部は砕け散った。その際に投げ捨てられた千児は、目をまわしてドサリと地面に落ちた。一方、姫は元気だった。
「おい、おまえ、しっかりしろ! あと一匹だろうが!」
と情けない少年を叱咤した。少年はがたがたと震えている。
「腰抜かしてる場合かよ! おまえはアタシを助けに来たんだろ!」
姫に怒鳴られてなお、少年は立てなかった。じりじりと尻と手を使って後退し、なんとか姫の背後まで来ると、少しばかり卑屈な様子で笑った。

「へへっ、姫さま、か、勘違いすんなよ……」
がっと目を見開いて、宣言した。
「お、おれはあんたを助けに来たんじゃない! いや、むしろ、むしろ助けてもらいに来たんだよ! だから早く、早くおれを助けてくれェ!」
そして、そのまま土下座した。
「お願いだから! は、早くたのまぁ。おれ、もう怖くって、小便漏らしそ……」
姫はその頭を勢いよく踏みつけ、
「いっそ死んじまえ、男のクズが!」
と一喝するなり、そのまま向かいの獣とにらみ合いにらみ合い、仕掛けるべき瞬間を見計らう。先に仕掛けたのはどちらだったのか、直前まで頭を踏まれていた千児には見えなかった。いや、見たとしても速すぎて見えなかったことだろう。一瞬のことだ。脱兎のごとき勢いで風を切り、鬼と獣はすれ違った。裂けた肉が弾ける嫌な音がやや遅れて響いた。それだけだ。ただひとつわかったことは、勝利したのは鬼だったということだ。

鬼伽姫は邪悪な笑みを浮かべると、獣の亡骸を乱暴に蹴飛ばした。亡骸はそのまま妖気の霧となって、幻のように散ってしまった。他の亡骸も同様に。
万千児は祈るように両の拳と合わせながら、ついにゆっくりと立ち上がった。しかし、心はすっかり折れていた。ただ両の目をうるませ、
「ひっく……姐さん、勝つって……信じてたぜぇ……」
とか何とか言うばかりの弱々しさ。そんな彼の姿を遠目に視認した姫は、その古風な価値観ゆえか、勇敢を是とする考えゆえか、思わず呆然となり、そして次の瞬間には肩が震えるほどの軽蔑をおぼえていた。
「貴様、何か私に言うことがあるんじゃないのか」
いらいらと歩み寄りながら姫が凄む。千児は辺りを見回し、やっと青いテロリストどもに鬼が勝利したことを理解し、極度の緊張がほぐれ、へらりとした笑みさえ浮かべて言った。
「おれ、助かったんだねェ。よかったよかったぁ。……あんがとなぁ」

しかし、今日の千児の災難はくどかった。
すぐに新たな追っ手がやってきた。喜ぶ間もなく、奇怪な唸り声が響く。見れば、玄関口にわらわらとたかり出している青い異形の影たち。途方もない数である。少年はすぐに絶望した。もはやこれまでか。俺はエロ本を隠すことなく死ぬのか。嫌すぎる。そう千児が思った次の瞬間、その大男は玄関口に現れた。
その右腕のひと振りは影どもを散らし、左腕の肘鉄はおよそすべての化け物の身体を引き裂いた。やって来たのは紅鬼である。鬼伽姫の父親だ。額を落下の際に打ったのか、そこからちりちりと炎がくすぶっている。彼が低い吠え声で一喝すると、もはや抵抗する者はなかった。彼はそのまま、恐ろしく邪悪な面構えで体育館に入場してきた。
「へ、親父、帰りが遅いぞ! もう歳か?!」
などと姫が茶々を入れなければ、千児はこの大怪物があの人の良さそうな中年男だということに気がつかなかっただろう。やはり姫の後ろで震えていた。
(やべえよ、姫のおやっさん。シリアスなツラすると、何て怖ェんだ)

男は千児をじろりと見ると、その顔を崩さず、滋味のある声で言った。
「すまぬ。巻き込んでしまったな、ヨロズの嫡男くんよ」
千児は姫の腰の横からひょっこりと顔を出し、口を少しとがらせた。
「うい……そうッス、巻き込まれました……」
「かわいそうになァ」
鬼にそう言われ、千児は少しうるんだ。安心と相まって、我が身の災難が改めて胸に沁みてきたためである。しかし、姫はやさしくはなかった。
「馬鹿言うな、親父。勝手に顔つっこんできたんだろが、こいつは」
と千児の胸ぐらをつかんで持ち上げる。父親がたしなめる。
「こら、鬼伽姫! あまり人間をいじめるな!」
「いじめてねえよ、バカ親父! こういうヘタレはな、少し根性入れ直してやって方がいいんだよ! こんな軟弱者は、いざ戦うことになった時、絶対逃げるからな!」

「逃げてわりいかよ!」
と開き直ったのは千児である。
「おれ、お化け怖いよ! だっておれ、ただの男子高校生だぜ? 何かと戦うことなんか、これから一生ねえし、戦うつもりもねえからな!」
鬼伽姫の父親は、深いため息をついて、言った。
「それが、そうも言ってられないのだ」
「何ですとッ?」
「コバルトホーンに、君の顔が知れてしまった。我々といっしょにいるところを、奴らの式神に見られてしまったからな。これはまずい。実にまずい。じきに君がヨロズの子孫であるということも、バレるだろう」

千児の理解力は、鬼の言葉に追いつかなかった。コバルトホーン? 式神? てんで置いてけぼりである。しかも、悪いことに、自分は彼らと何らかの関わりがあるらしいということだけは、彼にもわかった。千児は肝をつぶすやら、混乱するやら……。その時だった。体育館の正面玄関へと数人の妖が風のごとく参上し、殿の前に膝まずいた。既に顔見知りの蜘蛛ノ大臣が、至って冷静な口調で報告した。
「殿、報告致します。コバルトホーンのテロリストは、戦況を不利と見てか、一斉に退却していったと今しがた本校舎のスタッフから連絡を受けました。まことに遺憾ながら、主犯を取り逃がしたとのことです。まことに申し訳ございません」
「わかった。スタッフ一同ご苦労であった。私からも皆をねぎらいたい」
鬼殿は厳かに告げると、ますます混乱している千児の肩を叩いて言った。
「落ち着いた場所で、順を追って話すとしよう」
そう言い出した彼は、実に空気の読める男であった。


時刻は午後七時三十分。三人と隙山大平、そして蜘蛛ノ大臣の五人は、『モーテル鬼ヶ島』の事務員室となっている、昼間でいうところの生徒会議室にいた。紅鬼はおほん、と咳払いをしてから、次のように切り出した。
「万千児くん。君はヨロズの子孫にして、その生まれ変わりだ。ヨロズというのは、いにしえの薬学師の名だ。彼は生きた万能薬と呼ばれていたそうな……」
「ヨロズ? あーなるほどね、万(バン)家の『万』か」
「そうだ。ヨロズは究極の万能薬を、自らの魂を糧に作ったと言われている。ここはな、妖怪どもの間でも解釈の分かれているところなのだ。何せヨロズは伝説上の人物とさえ言われているからな」
ここで鬼殿はちらと娘と蜘蛛ノ大臣を見て、言った。
「しかし、ヨロズの万能薬の正体をついに解き明かす者が現れた。それが我が腹心の部下にして、『モーテル鬼ヶ島』の緊急医療班をも担当している、蜘蛛ノ大臣だ」
鬼殿に再び紹介され、鋭い目の男は、二人の人間に小さく会釈した。
(あ、ケツの人。医者だったんだ)
と千児は思った。蜘蛛というからには、糸は当然その尻から出るものと決め付けていた。

「あ、そうそうケツで思い出したんだけど……」
と千児が突然切り出したので、一同は一体どの文脈からのつながりか、理解しかねた。
「隙山先輩、『一人しじゅーはって』で痛めたケツはもう治ったんスか? さっきはフツーに歩いてましたけど」
隙山大平はニシシと笑って席を立つと、スムーズに腰を動かして見せながら、言った。
「それがよ、この蜘蛛の兄貴の糸針ってェので右の臀筋を突いてもらったら、もう瞬く間に右のケツがケンコーになりやがったんだ。そんで、左の臀筋の方もやってもらったら、もうあれよ、ケツの全体がケンコーにもどりやがった。見ろやこの滑らかな揺動運動。千児、この兄さんは本物だぜぇ、本物の医学博士ってやつだぜぇ……」
嬉しそうに話す大平と、瞑想者のように無表情な蜘蛛の青年を見比べているうち、千児の額を冷たい汗がだらだらと流れていった。
(そうか。そうだったか。あのイケメンのケツから捻出されたもんが、既に先輩のケツの中にも侵入していたか。地獄に落ちたおれを一本釣りしただけでなく、先輩のつった筋肉をも一発で直す。あのケツは、何というミラクルなケツであるか……)

おほん、と鬼殿がもう一度咳払いをした。彼の咳払いは場の空気に節目のようなものを作る。いわば説明をきちんと進行させるのに不可欠なものであった。
「わしが万能薬を探している理由はほかでもない。わしが自らの生命に代えても守りたい、愛おしい者がおるからだ。その者は生まれながらに肉体と魂の不適合という、不治の病をもって、生まれてきた。ヨロズの薬がなければ、あと一年も生きられん。その者とは……」
鬼は少し恥ずかしそうに目をそらして言った。この親父、可愛いじゃねえか、と千児は思った。この可愛さの半分さえも娘が受け継いでいないことが惜しまれた。
「お、おほん。それが、わしの娘、この鬼伽姫というわけだ……と言っても、おまえさんとはもう、知り合いだな。この……可愛い娘だ」
娘と少年、ちらと目が合った。

「いや可愛くねーよ、全然」
千児は眉をしかめて言った。2秒の沈黙。
「んだと、貴様ッ!」
と踊りかかった姫の腕を掴んで制した父親が、
「んだと、貴様ッ、しょっぴくぞ!」
と怒鳴りながら千児の肩を片手でゆさぶった。二人合わせて3本の角の影が、千児の顔にかぶさった。鬼殿は指をポキリポキリと鳴らした。
「わしの娘が可愛くないだと! ふざけるのも大概にせい! それとも、君はコバルトホーンだけでなく、わが鬼一族をも敵にまわすか。え? え?」

少し怖気づきながらも、相手が手加減しているのがわかる千児は、勇敢に言い返した。
「だって! だってだってェ! 俺、この女に食われたんだぜ? がぶりと一呑みに、食われたんだぜ? なごめるかよ! 信じられっかよ! それにぃ!」
千児は意地の悪い顔で、姫の眼前で人差し指を振った。
「おめえは、可愛いなんて言われてえのかよ?」
姫は怒鳴り声で即答した。
「言われてえよ!」
一同は沈黙した。姫は机にドンと片足を乗せると、牙をむいて喚いた。
「貴様ッ、なめてんのか! アタシはな、『可愛い』って言われるのが何よりも好きなんだ! だのにこのおっかねえ親父のせいで、みんなアタシをおっかねえ鬼の仲間だと思ってそんなこたぁ言っちゃくれない! こんな不幸なことってあるかよ、チクショー!」
グルルと牙をむいて机を踏み鳴らす激昂の姫に見下ろされ、千児は小さくなった。色々と反論したかったが、これ以上脅されたら膀胱がゆるみそうだったので、素直に言った。
「ひ、姫様よう、あんたは、とっても……とっても……『可愛い』ぜ?」
「今おまえ、かぎかっこ付きで言わなかったか」
「いいやいいやそんなこと! 決して! 決して!」

と、隙山大平が横から口をはさんできた。
「すっとぼけちゃってよ、千児。好きだって言えよ、このツンデレ。だっておまえ、体育館の2階で『この子気になるんだよね』的なこと、言ってたもんな」
「へ?」
千児も愕然としたが、鬼伽姫も呆然となった。鬼殿はそわそわし出した。
「千児くんよ、素直になろうぜぇ。どうせあん時、ホレちったんだろ? クラゲのピーピーそっちのけでこの子に見とれちまってよ、実は一目惚れだったんだろ? あれェ、もしかして食われちった時、おまえの中のスリルジャンキー的マゾヒスト的スピリットが目ェ覚ましたとか? へへへへへ」
「ちげーよ!」
千児は懸命に否定した。大平は好色そうな顔で笑っていた。この場を丸くおさめて千児をかばうつもりなのか、引っ掻き回して楽しんでいるのかはわからない。ただただ好色男の面構えだけがそこにある。鬼伽姫は考え考え、二本角をしゅるしゅると引っ込めながら、ぽつりと静かな声で言った。
「なんだおまえ、アタシにホレてたのか。クズのくせに良い目をしている」
「だから、ちげーよ!」
「姫さん、こういうの『ツンデレ』って言うんですぜ」
と大平が機嫌よさげに笑う。そこに鬼伽姫の父親が余計な口をはさむ。
「そうか。これが人間どもの言っていた『つんでれ』か。千年以上生きているわしも、実物を見るのはこれが初めてだ。ふーむ」
と好奇心剥き出しの目で千児を見つめている。親子は互いに目を合わせ、こくりと頷くと、口をそろえて言った。
「可愛いな、おまえ!」
どちらも明るい調子だった。なんだかんだいって仲の良い家族であった。千児は色々と不満であったが、生命が助かったことにとりあえずほっとした。

おほん、と性懲りもなく鬼殿は咳払いをして、話を再開した。実に便利な「おほん」である。それひとつで、さっと場の空気が切り替わる。これがカリスマ性というものだろうか。
「さて。心して聞くのだ、良き目をもった、年若き日本の『つんでれ』よ。万能薬とは、まさにヨロズの魂そのもののことであったのだ! 彼の精神そのものが、万能薬であったのだ!」
鬼殿は劇的に声を高ぶらせ、皆のリアクションをうかがうかのように一同を見渡した。が、肝心の千児がいまいちピンとこない顔をしていたので、説明をつづけた。
「卓越した薬学者であった彼の魂には、病と毒、毒と薬の駆け引きにまつわる数多の記憶が刻み込まれていった。そしていつしか彼は人間を越えてしまったのだ。彼は、病の因果律を読むに至った。おのが魂のうちに薬味を調合し、病の因果にふさわしい薬の因果を、彼自身の魂から引き出せるまでになったのだ。まさに生きた医療箱だ」
千児が首をひねっていると、蜘蛛ノ大臣が言った。
「君たちが知っている、学問体系としての医学とは切り離して考えた方がいい」
「説明してくれるか」
と鬼殿が言えば、
「承知」
蜘蛛の脚をもつ男は、低く涼しい声で、非常にスマートに説明してみせた。

「ヨロズの子孫よ。私の古臭い説明は、そなたには宗教的な言い回しに聞こえるかもしれぬが、そこはお許しを。まず、世界には、因果の鎖というものがあるといわれております。因果の鎖は、たとえば病気や死といった個々の出来事を引き起こす、いわば世界の核を作る設計図のようなものです。運命と言い換えても構いません。その鎖に触れるということは、運命に干渉できるということを意味します。いわゆる医学は、因果の鎖の末端部分を盲目のうちに手探りしながら、個々の運命にささやかな干渉を試みる営みであるといえましょう。まあ因果というものを素朴に信じるならば、あらゆる科学がこれと同様の言い方ができるでしょう。しかし、その鎖が直に見えるとしたら如何様でありましょうか。薬学師ヨロズは、混沌の闇を照射する医学という営みを極限まで鍛え上げた果てに、病と薬というものに関するところの因果律を直に見るに至ったのであります。いわば彼は、治癒と回復を司る妖怪となった」

淡々と説明する涼しい声に、皆が聞き惚れている様子を細い目でちらとうかがうと、少しばかり恥じたのか目をそらした。蜘蛛ノ大臣は、これで説明おしまい、ばかりに鬼殿にアイコントしながら卑下した。
「因果の鎖。あまりに文学的な言い回しであり、ヨロズの境地を語るのにこれが適切な言葉であるかどうかは、どうか問責なしを願いまする。一介の医者に過ぎぬ私には彼(か)の境地を存じませぬゆえ、鬼殿、この程度の説明でどうかお許しを」
千児は半分も理解できていなかったが、蜘蛛の説明は鬼の説明よりもだいぶ自信のありそうなプレゼンであったため、大変に満足した。姫も腕組みをしながら感想を述べた。
「は。親父とは違うな。まさに説明を聞いているって気分になった」
千児は、ははあこの女、理解度は俺とさして変わらないな、とひそかに安心した。鬼殿はやはり、おほん、と咳払い。みながそれそろ飽きてきた、例の咳払いである。

「うむ。今蜘蛛ノ大臣が述べた通りである。そして、万能ヒーリングの力をもったヨロズの魂が転生した、彼の子孫が君なのだ。万千児くんよ」
「ええっ?」
「だから、頼む。君にどうかわが娘の鬼伽姫を救っていただきたい」
千児は鬼に顔をぐっと近づけられて心臓がすくみそうになりながら、
「で、でも、救うったって、おれ、やり方わかんねーし」
と必死に言い訳をした。が、蜘蛛の青年は眉ひとつ動かさずに答えた。
「そなたの心が、姫君の肉体と精神の不一致の因果を読めばよいのだ。そなたの精神が姫君に積極的に働きかければ、そなたの中のヨロズの魂がおのずから薬を調合する」
「そんな適当な! ありえねーよ、そんな」
「ありえるのだ」
と言ったのは鬼だ。
「積極的な働きかけ。見つめ。見極め。何を意味するかはわかっているな。それは愛だ」
千児と大平はずるりと椅子から滑り落ちそうになる。

「愛って……」
と千児が言いかけた時、鬼伽姫がぷいと横を向いて、言った。
「やだね! アタシはこんなのに愛されたくねえよ、親父」
大平は千児と姫を交互に見やってから、およそ肉声にならない声で、愛ねえ、とつぶやいてから、蜘蛛ノ大臣に訊いた。
「あのさ、蜘蛛の兄ちゃん。愛ってあれか。ほら、なんか性的な交渉とか、契りとかでその力が発現するやつか?」
どす黒い沈默が、夜の生徒会議室に渦巻いた。鬼伽姫の角がゆっくりと萌芽していった。大平は言ったことを後悔するとともに、相手が妖怪であるという状況をも顧みぬ、自らの助平さに恐怖した。千児は軽蔑のまなざしで大平を見て言った。

「俺、先輩がゲスいのは、前からわかってたけどさ、ちょっと今回はマジでゲスだね。何ほざいてんだよ、『性的な交渉』とか!」
「だ、だって、あるじゃん、そういうの!」
「ねえよ! あーもしかして隙山先輩さ、エッチなマンガとか映画とか見過ぎてさ、ゲンジツと区別できなくなってんじゃねえの? ワイセツ行為しなきゃ世界が滅ぶんで仕方なくアレなんすよー、とか何とかいう……」
「ちげーよ! 大体なー。夫婦の契りというのは、神話の時代において、国と国とをまとめていくことの比喩だったんだぞ。契ることで土地の霊力を手に入れたりだな、擬似的な誕生のやり直しによって生命力を高めたりだな……そういう儀式としての意味でだね、おれは……」

と、突然鬼殿ははっはと笑って膝を叩いた。
「大平少年よ。驚いたな。今どきのハイスクールはそんな文化も教えるのか? いいやそうは思えんな。やつらは性に関して不寛容だ。ならば、独学か?」
大平はすっくと立ち上がった。
「おうよ、エロが絡んだ限り、おれは無敵だ!」
自分の言葉に元気づけられて、彼は思った。そうだ。迷うことも恐れることもない。彼はこの学校で知らぬ男子なき『センセー』――『エロの解説者』なのだ。たとえ相手が妖怪だろうと、今振られている話題は色気づいた猥談だ。話が猥談である限り、彼は素の彼のままでいていいのだ。彼は臆するわけにはいかないのだ。

そんなプライドにも似た感情が、大平の目を輝かせた。
「で、実際のとこどうなんだよ、蜘蛛の兄ちゃんよ。おれの質問は、そんなに的外れでもないだろ? 愛というものを語るにあたり、エロスっつーのももちろん重要なファクターだろ? な?」
青年はこくりと頷いた。千児は口をパカッと開いて、間抜けな顔を数秒間さらした。愛が必要だ、ということまでは理解していた。問題はその次である。どうやら千児は、蜘蛛の「こっくり」を見て、大平のいうそれが、十分条件ではなく必要条件であるというような意味に誤解したらしい。
「ふざけるなァ!」
鬼伽姫はグルルと唸ると、壁を蹴っ飛ばし、出て行った。
「こら、待て! ……まったくしようのない娘だ」
そうは言ったものの、鈍い父親はその誤解に気づいていなかった。娘の出て行った理由も察せず、父親はふう、とため息をついてぼやいた。

「のう蜘蛛ノ大臣よ。子育てというのは難しいものだな。二人が二人とも反抗的になりよってからに。おまえ、わしの子育ては何か間違っていたと思うか?」
蜘蛛ノ大臣は静かに答えた。
「姫君様の場合は、妹君様の場合とは異なっているかと。殿を父としてお慕いする気持ちが見えるだけに、私は何の心配も抱いておりませぬ」
鬼殿はうるる、と涙ぐんだ。千児は、やっぱり可愛いじゃねえかこの親父、と心の中で繰り返した。と、引っ掛かる言葉に気がついた。
「ちょ、ちょっと待てよ、今、妹君さまって……。姫様には妹がいんのかよ?」
「いる」
深い影を目元に落として、鬼殿が言った。
「美人?」
「美人だ」
それを聞いて、大平が、
「うっひょう」
と下品な声を出した。
「妹君だってさ。あの姉ちゃんよかは可愛いんじゃねえの?」
千児も同意した。
「ほんとほんと。会ってみてぇなあ、美人の鬼ッコ!」

「とんでもない」
と蜘蛛ノ大臣が言った。
「あなたがたはまだ若い。生命を大切にすべきだ」
千児と大平は顔を見合わせた。
「へ? それってどういう?」
青年は深刻そうなまなざしで言った。
「万一妹君さまに遭遇した場合は、まず、顔を見られないことです。視認されたが最後とお思いください。一度獲物と認識されれば、妹君様はどこまでもあたながたを追い詰め、ついにはあなたがたの肉を喰み、血をすすり、一点の欠片も残さずお召し上がりに……」
「ど、どんなイモウトだよ……」
二人の男子高校生は抱き合ってぶるぶると震えた。鬼殿は苦悶の顔で呻くように言った。

「すべてはコバルトホーン……人間差別主義の妖怪たちが経営する巨大企業の陰謀だ。わしの二番目の娘がそんな悪い子に育ったのは、やつらの思想が原因だ」
「コバルトホーン?」
「わかりやすく言うとな、我々紅鬼一族の分家である蒼鬼一族の会社だ」
話がわかりやすくなると、千児は途端態度をでかくした。
「へえ、なるほどね。鬼っていってもいろいろか。赤いのがいました。青いのもいましたってことか。おれだってそんくらいはわからァ」
「こっからが難しいぞ」
と赤鬼は牙を見せてにたりと笑った。
「赤いのと青いのはな、仲が悪いんだ」
「そうか、仲が悪いのか。よーくわかる。おれ、天才じゃねえかしら?」
「そして、もともと赤いのは人間に対して距離を置き、鬼一族の伝統を守る保守的な家系――いわば本家であり、青いのは近代以降人間の科学万能主義に染まった急進派であったといえよう。しかし、青いのは暴走した。もともと赤いのにも青いのにも、人間に対して好意的な者もいれば、敵意を抱く者もいた。しかし、蒼鬼一族は今、コバルトホーンという巨大権力によって統一され、人間蔑視の感情を増幅し、人への復讐を繰り広げている。人間社会のシステムのうちから、人間の生活を機能させなくさせるつもりだ」
千児は黙った。数秒後、
「おう」
と頷いた。少年が自分の言葉を理解できたことにほっとすると、鬼殿は言った。

「奴らは我々を挑発する。人間と共犯し、過剰なまでに妖怪たちの居場所を奪う。人間の心の中の、他の生命への敬意を奪う。しかし、人もまた自然なのだ。いわゆる『自然』という因果からの逸脱は許されないのだ。安らぎを失った妖怪たちは、いつか共生をやめた人間たちに反旗を翻す。コバルトホーンは、人間の側から、それを挑発しているのだ」
「でも、何でそんな回りくどいことを?」
「馬鹿にしているのだよ」
鬼殿は歯をぎしりと鳴らして、一気にまくしたてた。
「やつらは人間たちのシステムを遊園地のように利用して、遊んでいるのだ。馬鹿にしているのだよ。人間たちが作り出した、社会・経済・政治・道徳・文化。これら人間が作り上げた壮大なゲームに奴らは参加し、実際それに勝利しつつある。そして、人間たちはいつのまにか、自ら作り上げたゲームの敗者となっている。待っているのは罰だ。何も知らない保守派の妖怪たちからの制裁。そんな皮肉な状況を、奴らは笑っているのだよ」

重苦しい沈黙があった。話が想像以上に壮大なことになってゆくので、万千児はあっけにとられて瞬きを忘れていた。隙山大平は、話がもはや猥談ではなくなったために、たちまちにその存在感を失っていた。

「もう一度言おう。わが『モーテル鬼ヶ島』が、妖怪たちのガス抜きをはかれる最後の救いなのだ。少なくとも、この地域ではな。しかし、コバルトホーンのやつらはさまざまな嫌がらせで、うちの経営を苦しくさせている。よりによって、わしの娘までたぶらかして、殺し屋まがいのことに使ってだ!」
そして、話は思わぬところに帰着した。
「奴らはヨロズを欲している。そして、わしもヨロズを欲している。わしは君を総力をあげて守ることを誓う。だが、その代わり」
鬼殿はにいっと凶悪な笑みを浮かべて、言った。千児は、ごくり、と唾を呑んだ。
「君たち二人は、明日からこの『モーテル鬼ヶ島』に就職してもらう! 相手に負けてはいられない、人間の知と妖怪の力が手を取り合う時が来たのだ! そして! その接点こそが、君たちなのだ!」